ここあみるくのブログ

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「3人も障害児を産むなんて」と心ない言葉も。3人の重症心身障害児の母が絶望から立ち上がり、夢を形にすべく動き出すまで

重い知的障害や肢体不自由がある「重症心身障害児」のためのデイサービスを運営している紺野昌代さん。さまざまな葛藤を抱えながらも3人の重症児を育てた経験から、「重症児の育児で大変な思いをしているお母さん・お父さんたちの支えになりたい」と、現在の活動を始めました。紺野さんのこれまでの歩みを辿ります

「生まれた子どもたちは3人とも、同じ先天性の代謝異常症でした」と、紺野昌代さんは振り返ります。 専門学校を卒業して看護師として働き始めた翌年、長男の聖矢(せいや)くんを出産。妊娠中は何の異常もありませんでしたが、生まれてから初めて聖矢くんに重い障害があることがわかりました。 「聖矢を産んだのは20年以上前なので、今ほどは制度が整っていなくて預け先がなく、どこに相談していいのかもわかりませんでした。ミルクを飲めずに鼻から管を通していたのですが、逆流して吐いてしまって体重も増えず、昼夜問わず泣くことも多くて、ほとんど抱っこで過ごしていました。 私はもともとポジティブな性格ではありましたが、当時は自分が笑うことも忘れてしまって、『自分だけが不幸だ』と真っ暗なトンネルの中に迷い込んだようでした。幸い、聖矢が生後10カ月のときに義理の母が見かねて職場復帰したほうがいいと言ってくれて、職場に戻ってからママじゃない時間を持つことができて、少しずつ自分らしさを取り戻すことができました」 聖矢くんの出産を機に、通院していたこども病院で勤務することになった紺野さん。聖矢くん誕生の4年後に長女の蘭愛(れな)さん、6年後に二男の愛聖(まなと)くんを出産しました。2人とも妊娠中には異常はわからず、出産後に聖矢くんと同じ病気が発覚。紺野さんは今度はフルタイムからパートタイム勤務にチェンジして、3人を育てることに。       「職場のこども病院では、私と同じような境遇でがんばっている親御さんがたくさんいました。つながりができて、私自身もたくさん学ばせてもらいながら、だんだん明るく、前を向けるようになっていきました」 紺野さんは当時、自分の育児体験をブログに綴っていました。かけがえのない交流の場になっていましたが、中には「3人も障害児を産むなんて」「普通は3人目は産まないだろう」という心ないコメントをする人もいました。 「当たり前のことですが、障害があってもなくても、自分の子どもは可愛いんです。2人目の子の障害がわかった後も、たとえ3人目に同じ障害があったとしても、授かった命を大事にしたいという思いがありました。うちの子たちは言葉が話せず、自分でものを食べたり、歩いたりすることもできませんでしたが、子どもたちの笑顔に私はずいぶん救われていました。“人って、助け合って生きていくんだよ”と、生きるなかでのやさしさを教えてもらえた気がします」