ここあみるくのブログ

閲覧者様に上手く伝わるように努力した記事を伝えられたらと思います

まさか自分の町にミサイルが...」幼い娘2人と避難 夫のいない日本に残るか、ウクライナに戻るか、母親が下した決断 


1年半ぶりに帰った故郷ウクライナの地で感じたのは、恐怖だった。日に何度もある空襲警報、いつ起きるか分からない爆撃への恐怖、常に緊張状態だった。しかし、そこには愛する夫がいる安らぎもあった。ロシアによるウクライナ侵攻で夫と離れ、幼い娘2人と遠い日本に逃れた1人の女性は、久々の故郷で揺れていた。「命を失うかもしれないウクライナに残るのか」「夫のいない日本で1人で子育てをするのか」どちらを選択しても、自分が求める「幸せ」の形がそこにある訳ではない

アンナ・セメネンコさん(41)は、ウクライナ東部のハルキウで、夫と幼い2人の娘と暮らしていた。約200万人が住み、学生が集う町ハルキウは、生まれてからずっと暮らしてきた故郷だった。

すべては、突然だった。それまでのアンナさんは、戦争とは、広い野原のような場所で軍と軍が戦うもので、市民生活が巻き込まれるものだとは想像もしていなかった。しかし、それは現実に起きた。2年前に始まったロシアによるウクライナ侵攻で、見慣れたビルが倒壊し、美しい街が変わっていく。まさか自分が住む町にミサイルが飛んで来るとは...。その日を境に当たり前だった日常が一変し、味わったことのない恐怖に身を震わせた。

侵攻から4ヵ月後の2022年6月、夫アンドリーさん(45)をウクライナに残し、広島県福山市へ避難した。理由は、かわいい2人の子供エヴァちゃん(当時5歳)と次女ソフィアちゃん(当時1歳)の存在だった。

爆撃の恐怖で寝られない。
眠れても怖い夢を見る。

子供たちは、恐怖に顔を歪めていた。アンナさんは、成長への影響が心配でならなかった。「トラウマ」という言葉が頭をよぎった。

「子供のためにも、ここに居てはいけない」

母の本能が、住み慣れた故郷を離れ、避難することを決意させた。

広島へは昔、滞在したことがあった。知人の助けを借り、少ない荷物を手に、命からがら逃げてきた。「戦争はそのうち終わるだろう...」あくまで一時的な避難のつもりだった。

日本に来てからの日々は、あっという間だった。行政や民間団体の支援を頼り、何とか生活基盤を整えた。日本語は、以前来日した時に少しだけ覚えたが難しい。生きていくのがやっとの毎日だった。

エヴァちゃんとソフィアちゃんは、保育園に入ることができた。園からお知らせの紙を渡されるが、何が書いてあるか分からない。スマートフォンの翻訳アプリを使い、何とか理解し、日々の準備をする。朝、弁当を作り、子供たちを送り、生きていくために必要な様々な手続きをしていると、もうお迎えの時間だ。

住んでいる家は、最寄駅から2キロも離れている。家から一番近いバス停は1時間に1本しかバスが来ない。車はもちろん持っていない。ソフィアちゃんを乗せたベビーカーを押しながら、エヴァちゃんを鼓舞し、ひたすら歩いて必要なことをこなす生活だ。体重は減っていった。

知らない国で生活をするのは、大変なことばかりだ。その国の常識も分からなければ、漢字も分からない。頭を抱える中、柔軟な子供たちは、保育園で様々なことを吸収してくる。子供から学ぶことが増えていく。2人の成長だけが希望の光だ。

一方で、手のかかる小さな子2人を1人で世話するのは、思った以上に大変だ。息抜きをする場所や時間があればと願う。ときどき、「育児ノイローゼ」という言葉が頭をよぎる。

「自分がやるしか選択肢はない」

母親としての責任感だけが日々の生活を支えていた。夫とテレビ電話を毎日つなぎ、心を落ち着かせようと踏ん張った。

気が付けば1年半、卵焼きやみそ汁、茶わん蒸しを作れる自分がいた。子供たちの大好物は納豆で、毎日必ず食べる。日本になじんでいく姿がそこにあった。反面、アンナさんは思う。

「この戦争はいつ終わるのだろうか」

終わりはまったく見えない。孤独な育児に追われ、精神的にも限界が来ていた。何よりも夫アンドリーさんの存在が大きかった。このまま、パパに会わないと、忘れてしまうのではないか...それが怖かった。

去年11月、ウクライナに一時帰国する決意をした。恐怖から迷いもあった。しかし、春になれば、エヴァちゃんは日本で小学校に進学する。一時帰国するなら今しかない、と覚悟を決めた。

1年半ぶりに帰った故郷ハルキウに、12月末まで約2ヵ月間滞在した。最初の2~3週間は、恐怖しかなかった。
「いつミサイルが飛んでくるのだろうか。今、この瞬間にも爆撃があるかもしれない」
常に落ち着かず、心は休まらなかった。

建物
実際に、自宅から4キロ先で爆撃も起きた。衝撃音が響き、身体に揺れを感じた。広島に戻りたいと思った。町を歩くと、散歩していた若い男性が、銃を持った軍の人に呼び止められ、そのまま戦争に動員される姿を目撃した。オーダーメイドキッチンを作るのが仕事の夫は、持病を抱えていることもありまだ招集されていない。しかし、招集は誰にでもありうるのだと実感した。

3週間が経ち慣れてくると、夫と母がいる生活に安らぎを感じるようになった。子育てを一緒にしてくれる存在のありがたみを噛みしめた。

ウクライナを離れたとき、1歳だった次女ソフィアちゃんは当時の記憶が無かった。初めてパパという存在を認識し、愛情に包まれた。パパの体ぐらい大きな雪だるまをみんなで作ったことは、子供たちの幸せな思い出となった。
「雪だるま作りがとても楽しかったの」
取材中、子供たちは嬉しそうに繰り返した

男性は国外に出られない中、身を割かれる決断
一時帰国にはタイムリミットがあった。年が変わるまでに日本に戻らなければ、生活に必要な支援金がもらえなくなる。夫アンドリーさんとの別れは刻々と近づいていた。アンナさんは逡巡していた。「爆撃で命を失う恐怖と闘う生活を日常とするのか」「夫のいない言葉も分からない土地で、孤独な育児に追われる生活を日常とするのか」どちらを選んでも困難が待ち受けるのは目に見えていた。自分はどうしたいのか...悩み続けた。

この時も決断させたのは、「子供のために」だった。

去年9月に、長女エヴァちゃんは、ウクライナの小学1年生になっていた。小学校は今、登校が許されていない。授業はすべてリモートだ。日本にいても、それは受けられる。それならば、友達と走り回れる日本の小学校に通った方がいいのではないか。
次女ソフィアちゃんも同様だ。ハルキウの保育園は開いていない。恐怖を感じながら家に閉じこもるのであれば、日本で保育園に通えた方がいいに違いない。「母親としての責任感」が、決断を後押しした。

日本への旅立ちの日、空港に向かう列車にパパが乗らないことに気が付いたソフィアちゃんが泣き出した。

「どうしてパパは一緒じゃないの?」

アンナさんにとって胸が締め付けられる思いだった。誰もここを離れたくて離れたいわけではない。
戦争の終わりが見えない中、自分と同じ時期にウクライナから日本に避難した人たちは、徐々にウクライナへの帰国を選択する人が増えていた。空港へ向かう列車の中で、アンナさんは思った。
「もしもトラブルで、飛行機が何らかの形で遅れたら、これは天からの思し召しだと思うことにしよう。もしそうなったら、私たちはここに残ろう。広島に戻るのはやめよう」
でも、飛行機は定刻通りに到着し、搭乗できた。そのときアンナさんはつぶやいた。
「広島に戻る、これは天からの思し召し。運命なのだ」

こうして広島の地で、人生が変わった侵攻の日から2年を迎える。

現在、長女エヴァちゃんは、保育園から帰ると、すぐに、ウクライナの小学校の授業をリモートで受ける。クラスメイトも様々な場所から参加している。

授業が始まった日、最初の課題は、「戦場で戦う兵士に手紙を書くこと」だった。紙に、ハートの絵をエヴァちゃんが書き、そこにアンナさんが文字を寄せていた。

「戦ってくれてありがとう、どうか健康で元気でいて...」

メッセージを読むアンナさんの目から涙は止まらず、最後まで読み上げることはできなかった。

ウクライナでは、一般の市民が、兵士として戦場で戦っている。それは誰かの伴侶であり、誰かの親であり、誰かの子であり、かけがえのない存在だ。アンナさんの夫が、その兵士の一員になることがないとも言い切れない。

「まるでウクライナみたい」6歳の少女の目には被爆地とウクライナが重なった
アンナさんが広島で、この土地だからこそ励まされたこともある。1945年に原爆が投下された広島は「草木も生えない」と言われていた。
去年4月、アンナさん一家は、原爆資料館を訪れ、その惨状を目の当たりにした。エヴァちゃんは、遺品や写真を見て思わずつぶやいた。

「まるでウクライナイみたい」

アンナさんは、詳しく知るために、8歳のときに爆心地から2.4キロで被爆した小倉桂子さん(86)にも会い、話を聞いた。戦争で味わった恐怖、トラウマの経験、プロパガンダの怖さ...。それは、アンナさん一家が経験したこととまさに同じだった。小倉さんは伝えた。 「私ができることは、あなたたちの気持ちがわかりますよということ。いつか平和が来ると、そしてきれいな広島を見て元気を出して。またいつかあなたたちのきれいな街をつくってください」

眼下には、被爆後に「草木も生えない」と言われながらも、それを乗り越え、平和が訪れた広島の街が広がっていた。アンナさんは「今の私の、心の中の全部が分かる人と話ができた」


2人が出会った翌月、広島でG7サミット(主要国首脳会議)が開かれ、ウクライナのゼレンスキー大統領が電撃訪問した。さらに原爆資料館で、被爆者の小倉桂子さんが、ゼレンスキー大統領に直接、被爆体験を語った。小倉さんは、アンナさんの顔も思い浮かべながら、大統領に思いを伝えた。そしてゼレンスキー大統領もまた、被爆の惨状と、そこからの復興をその目で見たのだ。そのニュースは、アンナさんに大きな勇気を与えた。

侵攻から2年、アンナさんは「ウクライナが広島のように復興してほしい」と願っている。同時に私たちにこんなメッセージを送った。

「日本はずっと平和で安全で暮らせますように。私たちみたいにならないことを願っている」

2年前まで、アンナさんは、自分たちの日常が戦争に脅かされるなんて想像もしていなかった。戦争は映画の中のことだと思っていた。平凡な日常が続くことに疑いすらもっていなかった。でもそれは突然やってきた。

アンナさんは、私たちに教えてくれる。平和は当たり前のものではない。一人一人が大切にして、しっかり考え行動したとき、ようやく守られる